【インタビュー】小松美羽さんに聞く「あなたのターニングポイントは」Vol.2


――人には、自分だけの物語がある――

人には数え切れないほどの可能性があります。

夜空に無数にある星の中でひときわ煌めく星のように、自分の可能性を信じ、夢に向かって一歩踏み出し、輝き続けている人の原点やターニングポイントはどのようなものなのでしょうか。

今回は小松美羽さん。彼女の物語とは?

死生観のテーマとなるお祖父様とラビちゃんの死

–差し支えなければ、お祖父様やラビちゃんのことについてお聞きしてもよいでしょうか。

ラビちゃんの死は中学3年のときのことでした。自然豊かな環境で動物たちと触れ合いながら生活してきましたが、ラビちゃんは長生きでした。動物ですから、当然いつかはいなくなってしまいます。ラビちゃんともお別れをする日がきました。
でも、ラビちゃんは命が尽きてしまいそうでも頑張って生きてくれました。朝起きたとき、そして学校から帰宅するとき、私のことを待っていてくれたんです。最後の時も、「頑張って!頑張って!」と最後に声をかけたら、「辛いし、もうお迎えが来たから逝くよ」みたいな感じで息を引き取りました。その時に光る玉が体からポーンと飛んだのを見たんです。相棒のチョコちゃんが亡骸にではなく、その光る玉を目で追っていきました。その時、ラビちゃんの亡骸にはラビちゃんはもういないから、チョコちゃんは光る玉の魂を追ったんだ、魂は本当にあるんだ……と感じたんです。

ラビちゃんの死が大きなきっかけとなり、死に対する漠然とした恐怖心のようなものはなくなりました。死んでしまったから悲しいという感情だけではなく、不思議な体験をしたことで彼とはまたいつか姿形は変わるかもしれないけれども、どこかで会えると思ったんです。

私は輪廻を信じているのですが、「四十九日」のテーマになった大好きな祖父が亡くなった時も、またいつかどこかで会えるはずだと思えました。そのとき、死を通して、生を見ることが出来たのだと思っています。

大学時代、一目惚れした銅版画

–小さい頃から動物たちと接し、生と死を見て、作風が養われてきたんですね。美大を選ぶ頃にはテーマが固まっていたのでしょうか。

美大に入る頃には、死生観を描いていきたい気持ちがありました。ただ、どうやって描けばいいのだろうかと思い悩みました。私は女子美術大学(以下、女子美)の短期大学部に進学しましたが、本当に美大に行ってよいのかと先生とよく相談をして、「美大に行ったとしても、後で進路が違うということになっては大変だから、最初は編入ができる美術大学の短期大学部に進学して学んでみて、本当にアカデミックな教育がおもしろいと思ったら3年次編入するのがいいんじゃないか。女子美は入学後に専攻を決めることができるし、選択肢はいろいろと持っておいた方がいい。のびのび出来る環境で制作してみたら」とアドバイスをいただき、進学を決めました。

ただ、大学入学時にはまだ版画で自分を表現するって決めていなかったんです。銅版画をやろうとしたけきっかけは授業です。銅版画を見る時間があり、そこで銅版画の魅力に気づき「これだ!版画をする」と決意することができました。

女子美では色々なことを学べ、とても楽しく過ごせました。最終的には四年制に編入学しましたが、技術、歴史、美術などを学べました。ただし、大学でいくら学んでも、その後の方が問題です。画家やクリエイターの道に進もうと思っても、みんな運命が決まっていません。どこかの会社に就職できればなんとかなるっていうものでもなく……。

作品が評価されず、途方に暮れる日々

−−女子美を卒業してからはどのような道を歩まれたのでしょうか。

22歳で女子美を出たものの、画家になるためにはどうしたらよいのかと悩み続けました。24歳まではデパートの絵画コーナーでバイトをして、訪れるキュレーターさんとお話をして顔を覚えていただくようにしたり、アート関係の人の食事会に参加をして、作品を見ていただいていました。版画だと、ロールで刷ることが出来ますから。

女子美時代には賞をいただいたこともありましたが、作品に対する反応は全然駄目だったんです。当時の私の絵に共感してくださる方はいませんでした。持ち歩いていたのは祖父の死をテーマにした「四十九日」です。評価は、あなたの作品はテーマが重すぎる、怖いなど……。今思えば、私が自分の思いを伝えたいという一心で、この絵をどういう風にしたいのかということを伝えられていなかった、プレゼン能力が足りなかったという一言につきますが、自分の作品を伝えるのは本当に難しいと感じました。

画家になる夢を諦めなかった結果、ご縁が繋がる

–なかなか目が出ない日々が続いたんですね。途中で諦めようと思ったことはありませんか。

そうですね。本当にどうしたらよいのだろうと悩む日々が続きました。でも、画家を諦めたことはありませんでした。

小さい頃から母は私たちきょうだいをよく神社やお寺、美術館、そして博物館に連れて行ってくれました。美術館には来場者の感想を書くノートが置いてありますよね。平仮名で「がかになりたい」と書き込んだりもしていました。「あの壁に飾られている絵は誰が描いたの?」「画家さんだよ」「どうすればそれになれるの?」「画家になって美術館に飾られるのは氷山の一角の更に上の人たちだよ。大変で難しいお仕事だよ」と、画家という職業があるということも母が教えてくれました。そうなんだぁと思いながらも、画家になれるって幼心に強く思っていたんですよね。

もうひとつ、実は小学校時代に学校の木の下で昼寝をした時に見た夢の中で、私が今お世話になっている風土の高橋紀成さん(株式会社風土 常務取締役)を始め、協力してくださる人たちと出会ったことも理由です。その夢は一緒に仕事しているような、何かに向かって進んでいるという内容でした。自分が大人になったら画家のお仕事をするという鮮明さとリアル感があったので、画家への思いを捨てずに頑張れたのだと思います。

とはいえ、どうしようかと思う状況は変わりませんでした。そんな時、知り合いが恵比寿でバーを立ち上げるというので、バーに絵が飾られたらたくさんの人に見てもらえるかもしれないと思った私は、その人に「バーには絵が必要じゃないか」ってしきりに言っていました。そうしたら、「たしかに絵は必要だ」ということになり、私の絵が飾られたんです。その絵に興味持ってもらったのが、さきほどお話した夢でも出会った高橋さんです。

高橋さんは画廊さんたちに私の絵が本当に通用するのかを確認してくださいました。それまではなかなか共感いただけなかった私の作品をよいといってくださる人たちに出会えました。博多織の織元の岡野博一さん(株式会社岡野 代表取締役社長、株式会社風土 代表取締役社長)にも知り合えて、ご縁の輪がどんどん広がっていくのを感じました。

出雲のエネルギーと繋がり、ご縁が広がった「新・風土記」の奉納

–高橋さんと知り合い、ご縁が広がり、出雲大社へ奉納されることになったのですね。

そうです。高橋さんと知り合えたことだけではなく、もうひとつ大きなきっかけとなったのは出雲大社です。出雲の土地で「新・風土記」を制作し、2014年に奉納しました。これをきっかけにさまざまなことが変わり、ご縁の力をいただいいると感じています。「新・風土記」の奉納時には式典をしました。神楽殿は暗い場所でしたが、式典が始まり、祝詞が読まれるころになると絵にだんだん光が入ってきました。最初は上の方だけに光があがっていましたが、それが絵全体にだんだんと光の当たる範囲が広がっていきました。最初は光の調整なのかな、でも建造物だからおかしいなと思っていたのですが、式典が終わった瞬間にカメラで写真を撮った人がびっくりしていました。建物の上から光が差し込んで絵にあたっていたんです。実は式典中に光が差し込み、その光の範囲が広がっていく様子を不思議だなと思ってみていたのは私だけではなく、みんな同じように思っていたんです。出雲のエネルギーと繋がった気がして、不思議な気持ちになりました。

出雲とはそれからずっとご縁が続いています。元旦、神様に御飯をお渡しする「御飯供祭」にも参加していますし、強力なご縁までいただいています。出雲大社といえば恋愛で繋がりたいという気持ちで参拝される方が多いと思いますが、私は仕事や人間のご縁を繋げ、広げていただいています。

そういえば、自分の作品を通じて生前の水木しげる先生とお話しする機会がありました。先生は出雲は特別だ、古代出雲人はまだ生きているし、ここには妖怪もいるだろうし、スピリッツもある。原生林もいっぱい生きている土地だから、よいところだぞと。目玉が特徴的な私の神獣画も気に入ってくださり、出雲大社と私がご縁を持たせていただいたことについても喜んでいらっしゃいました。独特な学びが出雲にはあると思うので、いつかまたゆっくり滞在してみたいです。

>>VOL.3では大英博物館に作品を飾られる小松さんと今後の展望についてお聞きします。人懐こく素敵な小松さんから放たれる力強い思いとはどのようなものなのでしょうか。

 

小松 美羽
1984年長野県生まれ。2014年に出雲大社に「新・風土記」を奉納。2015年には、有田焼の狛犬「天地の守護獣」を大英博物館に永久所蔵を行う。また、2016年にはニューヨークのワールドトレードセンターに「The Origin of Life」が常設展示される。2017年11月18日から12月3日まではホワイトストーン・ギャラリーの銀座新館オープニングにも出展。