平昌パラリンピック出場!メダリストの枠を超えて輝く上原大祐さんのターニングポイントVol.1


生まれながらに二分脊椎という先天性の障害を持つ上原大祐さん。19歳でパラアイスホッケーを始め、2006年にはトリノパラリンピックに日本代表として出場。見事はハットトリックを決めてチームに大きく貢献し、続く2010年のバンクーバーでは見事に銀メダルを獲得し、日本中を大きく沸かせました。そんな輝かしい経歴を持つ上原大祐さんの原点とターニングポイントとはどのようなものでしょうか。

上原 大祐
1981年、長野県生まれ。生まれながらに二分脊椎という障害を持つ。19歳からパラアイスホッケーに本格的に取り組み、トリノ2006冬季パラリンピックで日本代表に選出される。バンクーバー2010冬季パラリンピックの銀メダリスト。
2017年に現役復帰し、日本代表選手として、平昌2018冬季パラリンピック出場を果たす。

 

2018年平昌パラリンピック出場!力を抜くときは抜き、勝ちにつなげる

──2018年平昌パラリンピックのご出場決定おめでとうございます!3度目の世界の大舞台を目の前にした、今のご心境をお聞かせください!

驚かれるかもしれませんが、プレッシャーは全くありません。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私は一度引退しているんです。今回、再びチャンスをいただき代表選手として出場させていただきましたが、一度肩の荷を下ろしたこともあって、とてもリラックスして臨むことが出来ました。試合直前、他の選手の中には「なにがなんでも勝って、メダルを取るぞ!」と気合が入っている方もいましたが、そういう姿を見て、私はあえてみんなを自分の部屋に集めたんです。


※上記はバンクーバーパラリンピック銀メダル

──それは最終的な作戦会議のためでしょうか?ツメの甘さが勝敗を左右する世界ですから!

いいえ。みんなでお茶をするためです。私は、どんな時でもふわっと笑って、なにごとも楽しむことを目的にしているんです。元々の性格というのもありますが、過去の経験の中で気合を入れ過ぎて勝利を逃したチームを見ているものですから、力を抜くことも勝ちにつながると信じているんです。

やれるかやれないかは後回し!まずはやってみる。母の影響。

──そこまでの精神的な余裕を持てるのは、やはり、そこに至るまで鍛錬を重ねてきた結果かと思います。そこで、まずは、輝かしい経歴を持つ上原さんの原点をお伺いしたいと思います。

今の私の原点と言うと、母の影響が強いですね。私は幼少期から車椅子で生活をしています。それにも関わらず、小学校から高校まで普通学級で勉強することができたのですが、それは母のお陰なんです。母はどんな些細なことに対しても頭ごなしに「これは大祐にはできないんだよ」とは言いませんでした。

私は、小さい頃から何でもやりたがりだったんですよ。たとえば母がアイロンがけしているときも「やらせて~」と言って強引に熱いアイロンに触ったりして、火傷しそうになったり。そんなとき母は、「ほら?熱いでしょ?だから触ってはいけないんだよ」と教えてくれたんです。

──きちんと理由をつけて、根気よく教えてくれたのですね。

そうです。障害を理由にすることはありませんでした。そうして、小学生になったころ、今度は、同世代の友達が自転車に乗り始めたのを見て、どうしても乗りたくてたまらなくなってしまったんですね。

こんなとき、障害のある子供を持つ親御さんは、「あなたは足が動かないんだから、自転車に乗るのは無理なんだよ」と言ってすませるのですが、私の母は違いました。「ちょっと待っててね」と言って、私の住む長野県の隣の群馬県まで行って、手で漕ぐ自転車を探してきてくれたんです。「さぁ、これに乗って」と、母から自転車を受け取った時、本当に嬉しかったですね。

こういう、母自身が「できない」と言わない精神を身をもって実践してくれたことが、今の私の原点になっているのは間違いありません。普通学級に入ることはできたのも、母が諦めずに何度も役所で交渉してくれたからなんです。

──お母様の影響はどのような場面で発揮されているのでしょうか?

できるかできないかは後回し。まず、やりたいと思ったことはやってみる。今も昔も変わらず、全てに関して、その精神でチャレンジしています。

運命!パラリンピックに繋がるパラアイスホッケーとの出会い

──その強いチャレンジ精神があったからこそ、現在トップアスリートにまでなられたのだと思います。そもそも、パラアイスホッケーを始めたきっかけは何ですか?

車椅子をめちゃめちゃ壊したことがきっかけです(笑)

──え!?と言いますと?

とにかく思いついたことはなんでも試す性格ですので、子供の頃から日々、新しい遊びをクリエイトしていた……というとかっこいいのですが、少しヤンチャが過ぎたと言いますか……まぁよく車椅子を壊していたんです。例えば、私は車椅子で登校していたのですが、中学に上がると友達は自転車通学になったので車椅子のスピードでは一緒に登校できなくなってしまったんです。でも、それはイヤなので、自転車に乗っている友達につかまって車椅子ごと引っ張って貰ったらうまくいきまして。

も、そんなことをやっていたら当然転びます。で、気が付くと車椅子の前輪がもげてころ~んと……。私は「車椅子がモロいせいだ!」と、言っていましたが、大人はそうは思いませんよね。そんな私に呆れて、車椅子メーカーの社長から「これまで何千人もの車椅子ユーザーと関わってきたきたけどな、お前ほど車椅子を壊すやつは、この世の中であったことがない」と言われてしまいまして。でも、このやんちゃぶりが、パラアイスホッケーに向いていると言って勧めてくれたんです。実は社長も車椅子ユーザーで、パラアイスホッケーをやっていたんです。

──そこですぐにやってみようと思ったのですか?

実はそれまではトランペットとピアノとギターをやっていて、将来は音楽で生きていこうと思っていたんです。でも、当時、ちょうど、地元で長野オリンピック・パラリンピックが開催されましたので、スポーツに興味を持つようになっていたんです。

そんなときに社長からホッケーを勧めて貰ったので、すぐにやってみようと思いました。パラアイスホッケーというのは、スレッジという道具に乗って氷の上を滑りながら競技をするのですが、試している段階で「これだ!」って思ったんです。理屈ではなく感覚で!

それが19歳の時。私の選手人生の原点でもあり、人生おけるターニングポイントでした。だからね、今では車椅子を壊した甲斐があったと思っているんですよ。壊してなかったら、私はメダリストにはなれていなかったと思いますので。

──それまで、自由奔放だった上原さんを夢中にさせた、パラアイスホッケーの魅力とは?

アイスホッケーってスティック1つでやるものなんですよ。でも、パラアイスホッケーの場合は2つ持って、右でも左でもシュートが打てるんです。だから、いかに右手と左手を巧みに使うかというのがパラアイスホッケーならではの魅力のひとつ。右手でボールを持っていて右から相手が来たら急いで左に持ちかえる、もしくは右で誘って左に持ち変えて、相手にボールを触らせない様に体でガードするなど、自分のテクニック次第で試合を左右することが出来るんです。

その上、スレッジに乗るとかなりスピードがでますから、視覚的な楽しさもありますし、スティックがぶつかり合うバーンという激しい音が聴覚をくすぐってくれます。そして、なんといっても一番の魅力は迫力ですね。

──迫力満点ですので、最初は怪我などのご苦労も多かったのでは?

ホッケーに限らずスポーツに怪我はつきものです。怖がっていては何も始まりませんよ。2回ほど骨を折って手術をしていますけど、傷跡を見るたびに「あぁ、今日も思う存分、やったな~」って実感がわくんです。

──傷は男の勲章と言いますものね?

そうそう。それから、これはパラスポーツ全般で言えることなんですけど、いかにチームメイトや仲間を信頼できるか。これが勝敗にも繋がっていくんです。やはり障害はハンディキャップであることには違いありませんので、それを苦労とは思いませんが、実際問題として人のサポートが必要になってくる場面は多いんです。ですから、どれだけ人を信頼できるか否かで、思う存分、自分の持てる力を発揮できるか、できなかったかの差が生まれ、最終的には結果を大きく左右するんです。

──それはスポーツに限ったことではないかもしれませんね?

そうなんですよ。そして、障害のあるなしも関係ありません。人はひとりではたいしたことはできないと私は思っています。誰かと出会って、信頼関係を築いて、コラボすることで、予想以上の結果が付いてくるんです。ホッケーを通じて、それを学ぶことが出来たおかげで、私はその後、ビジネスや活動も一気に広がっていったんです。

>>Vol.2では上原さんの現在の活動のターニングポイントに迫ります。さまざまな経験をされた上原さんの視点から生み出されるアイディアとはどのようなものなのでしょうか。

(聞き手:浅水 美保 撮影:髙橋 明宏)